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身体・後期植民地

  • sukiyaki9chan
  • 2022年3月13日
  • 読了時間: 4分

友人は、ジェンダーマイノリティーでとりわけトランス女性や。

あるいは、どもり・吃音のものもおる。

わしは、男性で統合失調症やが、自分では性や障害はあまり大事には思っていない。

自分で大事な「身体性」は、方言話者やということや。


(一応言うておくが、これは「劣等感」とは関係ないよ。身体にコンプレックスをもつことは多いし、マイノリティーもなにかそれと関係ありそうやが、それら「身体」「マイノリティー」「コンプレックス」は後から関係づけられるわけで、もともと決定づけられているのではない。「抑圧」もそうで、しかしぼくは方言に対する抑圧は感じている。からだに抑圧を受けるわけで、やはり決定的ではないが、親和性はありそうや)。


「身体」の門田による定義は、「肉体」+「精神」。

デカルト主義の「客体(肉体)」と「主体」を併せたものやな。

肉体性が、「眼(視覚)」「耳(聴覚)」「鼻(嗅覚)」「舌(味覚)」「身(触覚)」の五感に関わる範囲で、

精神性が、「意(意識・精神)」であろう。

ぼくは、デカルト主義的な「主客二元論」に反対し、「<全体としての客体>一元論」を主張する。

まず、二重丸のかたちをした、集合論で言う「ベン図」を思い浮かべてほしい。

外枠の大きな円が「客体」。しかし、全世界集合としての「全体」である。

内側の小さな円が「主体」。そやから、主体は客体の一部分なんである。


そして客体(大きな外側の円)に左斜線をいれ、主体(小さな内側の円)に、その左斜線がかかっている上から、右斜線をいれる。

すると、中心の主体には、左右両方の斜線がはいる。つまり、「主体」には、主客の二重性がある。これが、門田理論の眼目である。


そして、「身体」は「客体」であり、ぼくの考えは「身体一元論」である。

身体性は、依然「空間性」「物質性」をもっているから、門田論はいわば物質一元論つまり「唯物論」の復活ともいえる。

(もちろん、エンゲルス風の唯物論ではない。未確認であるが、20世紀の共産主義者ーー「中期社会主義者」たちーーは、<客体が外部から主体を決定する唯物論>か、あるいは<客体の内部で弁証法的展開をとげる土台無理な唯物論>であったかと思う。ともに、主客二元論の痕をひきずっている。20世紀には、集合論が知られていなかったのであろうか?ぼくは小学校で通ってた学習塾・浜学園で集合論やベン図を習っていたから、小学生当時から、この「世界図式」を描いていた。友人には「蛇の目」と呼ばれた。加藤清正の紋所である)。


はなしがずれた。

その身体とは、人間個人身体といえば、肉体と精神を兼ね備えた「人間(単数)」「個人」であるが、ぼくがここで展開したいのは個人をも中に含むが、「社会的身体」である。

現象学でいう「キネステーゼ」、つまり「人間の気持ちが及ぶ空間」である。

例を挙げれば:瀬戸内海・オランウータンなどの絶滅危惧種・阪神タイガース・大阪弁・ジェンダー・障害・サッカー・釣り・料理・性愛・犯罪・差別・善悪・真理・学知・国土・故郷、、さまざまにある。


その、身体を損なわれたら「痛い」。この痛み・受苦性こそが、身体いやさ「物質」の定義かもしれない。もっとも、「苦」とか暗いから、「快楽」「受楽性」でもええねやが笑


そして、べつのところ(リンク集の「note」アプリ参照。臨夏のハンドルで、ぼくが方言論を数編執筆している)で述べているが、昨今大阪方言が危機言語で、大阪弁の崩壊が痛うて、辛うて、耐え難いから、ぼくは活動を始めた。「身体の自由」を求める、資本への抵抗運動と位置付けられる。


この身体的抵抗運動のなかまとして見出したのが、

トランス女性の〇氏、吃音者の〇氏、犯罪性愛者の〇氏たちである。

いろいろ、多士済々である。

サルのボス(グローバル資本)を倒すため、カニやドングリやウスが集まってきたわけで、ぼくは仲間に牛の糞(Mr.ブルシット。資本家。個人身体を持つ、資本制ではない存在)をも加え、近代末期いや人類前史の最終闘争を展開したい。「現代猿蟹合戦」である。


そして、その「現代人の身体」を「後期植民地」と呼びたい。

結局、<人間身体(人間の生)が資本に従属している>ことが根本状況なのであり、この身体の従属の地理的表現が「植民地化」である。

普通、植民地はフェニキア・ギリシアの昔をいわないなら、日本史では日清日露以降に獲得した、近代中期=帝国主義時代のものであろう。これを「中期植民地」と呼び、典型としては朝鮮植民地や台湾植民地あるいは「満州植民地」がある。

中期植民地の性格は「政治的抑圧」(「政治」概念はマルクス「アンチルーゲ論文(批判的論評論文)」から)であり、やはり領土を奪う抑圧のことである。

ぼくの提示する後期植民地は、いささか概念が跳び過ぎの感があるが、領土空間に限らず、空間概念を社会空間全体にひろめたい。上記のジェンダーや方言や自然環境である。その定義は「社会的抑圧」を受ける身体、である。

政治的解放は世界が前近代から近代に移るとき(フランス革命・明治維新)のテーマであり、社会的解放は近代から後近代にかけてのテーマである。


また、稿を改めて。

220313


 
 
 

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