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門田一元論の先駆者としての量子力学

  • sukiyaki9chan
  • 2022年3月13日
  • 読了時間: 3分

サイエンス(近代自然科学)について考えたい。

サイエンスは、デカルト主義二元論から派生したもの。デカルト主義は、主体と切り離された客体、つまり「精神」(主体)と切り離された「肉体」を独自の客体とおく。「肉体」は、全体としての客体ではない、二重図でいえば、主体の周縁のドーナツ型の部分。これを「小客体」と呼びたい。全体としての客体は「大客体」と呼ぼう。大客体は世界であり、「身体」。小客体は肉体であり、近代自然科学の扱う意味での物質である。


世界の主体的側面(人間の心・倫理や、社会)をおざなりにし、小客体ばかりを追いかけるのに特化した思潮を「デカルト左派」「機械的唯物論」と呼ぶ。近代サイエンスの本質はこれである。この近代サイエンスのやり方で社会や歴史を読み解こうとしたものが、エンゲルス(『自然弁証法』)や、レーニンたち「中期社会主義者」で、これは「科学的社会主義」と一般的に?言い慣わされている。この共産党哲学者をはじめとした「中期資本主義者」(「共産<党>主義者」を含む帝国主義者)たちの態度が、地球温暖化や近代に激増した精神疾患、さらには核兵器や核発電所、遺伝子工学やAIの暴走をもたらしたのであろう。


門田はこの「近代主義」に対し、<大客体のなかに主体を置く一元論>でもって対抗する。しかし、近代学知の歴史において、サイエンス自体からも門田とは別に、先行した形で「対抗近代」が提出されていたのではないか?

#「量子力学」がそうである。

<観測系の中に観測者を置く>、という図式がそれであるが、この「観測系」は大客体、「観測者」は主体ではないか。そしてこの図式は一元論や。


サルトルも、この量子力学には着目したが、全哲学史のなかに位置付けることはなく終わり、表三郎もこのサルトルの着眼を「一知半解なハッタリ」とアッサリ片付け、自分ではそれ以上のコメントをしていない。


後期社会主義者である門田より先に、デカルト左派からでた、この<後近代哲学>をどう評価すべきであろうか?識者諸兄のご教示を待ちたい。


また、もっと古い東洋パラダイムを持ち出してみよう。医学における「医師」を「観測者」(主体)、「患者」を小客体ととらえ(あるいは、「患者系」というアプローチで捉えて、これを「観測系」(大客体)と置くか)、医師と患者の同席する診察室を「観測系」と置くことも可能。

さらに、アイヌ民族などを「対象」にする、文化人類学者を「観測者」、アイヌ民族インフォーマットを、上の患者と同じく捉えてもよい。

どちらの場合にも、主体と小客体の「人間二人」がおる。「人」が「二」で「仁」。まさしく「医は仁術」であり、文化人類学者やあるいは教師や警察や市役所職員の仕事も仁術である。


この中国哲学の仁術は、マルクス主義でいうと、フォイエルバッハテーゼにおいて現わされ(また、フォイエルバッハの「類」(ガットゥング)は「仁」のことではないか?)、日本の加藤整と表三郎によって明らかになった、<対象を主体として把握する>行為である。ここでは詳述しないが、廣松渉などの一般の日訳<対象を主体的に把握する>は全くの誤訳である。ただ、この場合「主体」が「対象」、すなわち患者やインフォーマットになっている。門田の上の記述では「主体」が医師や人類学者なので、平仄が合わない。あるいはマルクスの言うように、医師が客体、患者が主体なのか。


エンゲルス『自然弁証法』精読と合わせ、この「フォイエルバッハテーゼ」についても、識者諸兄と研究会を持ちたい。


220313



 
 
 

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